インターステラー考察と感想 -IMAX再上映-

その他

はじめに

さっそくだが、ネタバレを含んだ内容になっていることをご了承ください。
はじめてみたのはAmazonprimeでみて、今回を含めて合計4回ほど鑑賞しました。

今回はIMAX上映ということで今まで自宅の画面でしか見たことなかったが、映像美とサウンドに圧倒された
なにを至極当然のことを言っているのか・・・

インターステラーを何度か見て私が感じたこと、思ったことを自由に記述しようと思う。
なので、文章が拙いことと私の想像をたくさん含んでいることは、ご愛嬌ということで許してほしい。

-あらすじ-

『インターステラー』は、地球規模の異常気象と飢饉によって人類滅亡の危機が迫る近未来が舞台。元宇宙飛行士のエンジニアで現在はトウモロコシ農場を営んでいるクーパー(マシュー・マコノヒー)は、NASAの要請に応じてラザロ計画に参加することに。その計画とは、土星付近に突然発生したワームホールを通り抜け、新しい惑星へと人類を移住させるという、命を懸けた前代未聞の極限ミッションだった。家族と人類の未来を守るため、クーパーは少数精鋭のクルーと共に前人未到の地へと旅立つ。すべての希望を託された彼らは、その使命を全うし、愛する者の元へ生還できるのか!?
ワーナーブラザースのニュースより

クーパーの旅立ち

あらすじにもあるように、クーパーは家族と人類の未来を守るために旅立つとある。
私は人類のためというより、自分の家族のため
愛する娘たちの未来のためにラザロ計画に参加したように感じた。
複数回みていると、旅立った後のクーパーからのシグナルがすでに来ていることがわかる。

親と子供の大事な時間

地球を出てワームホールを通過しミラーの星から帰還し、地球との相対的な時間が約20数年が経つ。
父親ならば、子供が一番心配に思える時期
そして、子供の成長を最も近いところで感じ、一緒に喜び、共にありたい時期である。
10歳程度の娘を残してきたのならなおさら・・・

ミラーの星から戻ってきたときに、映像ログをみて涙していたのは想像に簡単である。
もう一生会えるかもわからないミッションで
子供のいない私でさえ、会えないつらさが想像できる。

次元についてのはなし

私は専門家ではないので詳しくはわからないが、
意味として、そのものの位置を特定するための変数の数と認識している。

例えば、地球上で自分の位置や建物の位置を表すときに、緯度と経度を使う。
いわゆる平面上のx座標とy座標である。

Googlemapでも適当な位置を選択したときにも小さく表示されている。
この場合、2つの変数を使っているので2次元と表現する。

もう一つ変数を増やして、z座標を使うと立体の中で位置を特定できる。
変数が3つとなり3次元、立体となる。
だいたいあっているだろうか?どうだろう・・・

この変数を4つにすると4次元となり、ここからがSFで描かれやすい余地となる。
4つ目の変数を「時間」とする作品があったり、
連続する立体を特定するものなど様々である。

もしかしたら私たちの冒険できる可能性のある未知の領域かもしれない。
これも哲学的な意味で「宇宙」と捉えられるかもしれない。

「愛」を1つの変数とする

アメリアがワームホールの中で次元の歪みに触れたシーンを初めてみたとき、
腕が持っていかれるのでは?
今後なにかのトラブル回避の布石か?とか思っていた。

改めて考えてみると、この映画は高次元の変数の1つを「愛」と定義した。

終盤でブラックホールの高次元空間を閉じた後、
クーパー側からワームホール内のアメリアへ手を伸ばしている。

一時的に高次元の存在あるいは、高次元空間の中にいるクーパーがアメリアと
「愛」でつながりはじめていたのではないかと印象を受けた。
言い換えると、クーパーがアメリアを愛しはじめていたのではないかと。

このシーンは3次元の中で生きる私たちが、観測できず認識できないなんとなくの存在である
「愛」を一つの観測可能な事象として表現したのがこのシーンだと感じた。

次元に関する変数のはなしを続ける

インターステラーでは、高次元の変数の1つを「愛」としている。
「愛」は私たちの世界では物理的あるいは数学的に表現ができない。
証明はたまた定義づけといった方が正しいだろうか・・・

言語的にこういうもの
感情的にこういうもの
そういったものはあるが、とらえかた、感じかた、考えかたも十人十色である。

かなり抽象的ではあるが、「それが愛だ!」と言われたらなんとなく理解できることもある。
人や生物、自然などあらゆるものに対してなんとなくある「感情」「想い」の類だと私は思っている。

「愛」というWordを単純にGoogle検索するとOxford languagesの意味の中の一つに、
「(略)・・・強く引きつけられる気持ち」とある。

人が持つ感情の中に、人と人とのつながりとなる一種の引力である。
物体と物体が相対的に、存在し、引かれ合い、座標を特定する。

無理やりなプロセスだが、こう考えてみるとたしかに「愛」について物理的あるいは
数学的に定義づけできたら、変数としてとらえることができる気がしないでもない。
とても想像が捗って楽しい映画である。

ブラックホールの中で

クーパーとマーフはお互いに「愛」という変数でお互いの存在を特定できた。
ブラックホールの中の観測データ・重力公式の解となるものを、3次元的に電磁波が外に出られない
環境下でクーパーとマーフ間では唯一送信することができた。

ブラックホールの中では重力が強すぎて、ある点から光はおろかあらゆるものが影響外にでることが
できなくなる。
もちろん生体として存在することなどできないことは容易に想像できる。

クーパーは3次元の存在として縛られる肉体から解放され、意識のみの存在に”昇化”したのでは?
という想像に至った。
いわゆる魂とか霊体とかそういったものの類だと。

一時的に高次元の存在となり、高次元の空間を作り出した。
人間としての意識下では3次元までの変数しか認識できないため、どういった方法で高次元の
空間をつくりだしたか理解も観測も証明もできない。
しかし、クーパーは無意識に必要性を感じ、無意識に空間を作ったことを”なんとなく”理解したのではないだろうか。

クーパーとマーフの再開

クーパーがミッションをやり遂げ、奇跡的にマーフと再会できたとき、マーフが偉業を達成し人生を終えようとしていた。
マーフには家族がたくさんできていた。
「愛」でつながり合った存在がたくさんできていた。
クーパーにはアメリアのところに行けと言った。

エドマンズが時間の流れなのか、岩の下敷きになって死んだのかわからないが、
アメリアは誰もいない星で、孤独に誰とのつながりもなくミッションを続けていた。
きっとアメリアはマン博士がシグナルを送った気持ちも理解できたであろう。

そして唯一「愛」でつながりを持った可能性のあるクーパーがアメリアのもとへ向かう。

映画はエンドクレジットがはじまる。

「死」の考え方が変わった

この作品のせいで(良い意味で)私の死への考え方が変わった。

相変わらず専門的な知識はないが、人間は脳からの電気信号で体を動かしている。
その脳からの信号の基礎となる部分は、今までの教育、遺伝、環境など様々な影響を受けながら、成長とともに回路を構築する。
言い換えると、個人の行動原理は、受けた影響全てで決定される。

そして感情や行動の方向性がある程度決まり、自分がどうしたいか意思決定の連続で体を動かす。
その意思決定や行動原理を含む「個性」のことを「心」だとか「魂」など、そういったものだと私は思っている。

仮に「魂」だとすると「死」は、前述の通り3次元の存在である肉体から分離する過程であると考えられないだろうか。
高次元の存在、いわゆる「霊体」「魂」そんな感じの存在になった行先を宗教的な概念でに天国や地獄、極楽浄土と表現しているのかもしれない。

さいごに

率直に、まごうことなき名作だと思った
最近、年齢を重ね知識量も増え、いろんな経験や人間関係を経て、どんどん涙もろくなっているとはいえ、お恥ずかしながら何度かこらえきれないところがあった。

この作品は映像美はもちろんのこと音の演出、脚本なにをとっても私好みだった。
特に無音をうまく使った演出はすごく好きだ。

想像して思考できる余地も残ってて、いろいろとあれこれ考えるのがすごく楽しかった。
理論上の物理学、自然科学などなどリアルな部分と、本当にそうなのかなと思わせてくれるフィクションが程よく織り交ざっているようだ。
想像する楽しさ、考える楽しさ、いろいろな人間の考え方、あらゆる面で楽しめる作品だと感じた。

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